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主の降誕夜半ミサ説教 ルカによる福音(2:1−14)

2004年12月24日
  於:桜町教会

今日の,福音書の最初のところにこういう風に言われております。「皇帝アウグストゥスから,全領土の住民に登録をせよとの勅令が出た」と。この命令に今日の主人公であるイエス様も,その母マリアも,その夫ヨゼフも従って参ります。ごく普通の出来事のように,今日の聖書は淡々と書いております。
 アウグストゥスというのは,当時のローマの皇帝です。アウグストゥスは自分は権力者であると意識しております。自分は皇帝なんだ,王であると。従って,自分が望むことを,人々が行うのは当然であると考えています。だから,マリアもヨゼフもイエスもその命令に従います。極端な表現を使いますと,アウグストゥスは,世界はあるいはその歴史は自分が動かしていると思ったかもしれません。自分しかいないと。同じ事は,ユダヤの王様であるヘロデについても言えると思います。自分はユダヤを治めている王であり,みんなは私に従わないといけないと。

ここで私は問いかけを始めたいと思います。本当に,歴史の主人公というのは誰だったんでしょう。例えば,現代の主人公は誰でしょう。ブッシュ大統領でしょうか,小泉首相でしょうか,はたまた裏で巧みに政治を操っている第三の人物でしょうか。少し歴史をさかのぼってみますと,例えば50年前70年前,ルーズベルトでしたか,それともチャーチルでしたか,スターリンでしたか,毛沢東でしたか,ムッソリーニでしたか,あるいは昭和天皇だったでしょうか。今すべてが過ぎ去って,これらの人々を動かしたものは何だったのかという問いかけをしたいのです。

ヨハネの福音書というのがありますけど,その福音書で「私たちは闇の支配下にある」と,こんな事を述べております。すなわち,この世界を動かしているのは闇なんだと。闇というのは悪の根源であると,こんな話もしております。すなわち,スターリンやヒットラーでもなく,彼らを揺り動かしたのは闇の力であったと,私たちが生きているこの世界も闇の力が支配しているんだと,こんな事を聖書が言っております。従って,この闇の力というのが人々を動かして,戦争とか,暴力とか,殺人とか,人々を無軌道の道に引きずり込んでいってしまいます。この世の為政者は,自分こそその時代の主人公であると自負しています。その実,彼らは,闇の力に支配された操り人形に過ぎないということに気付きません。従って,慢心し,自分こそ主人公であり,絶対的な支配者であり,思う通りに人を動かすことができると,うぬぼれてしまいます。これが落とし穴です。

聖書の最後の方に黙示録という本がありまして,その中で「666」とか「1260」という数字が出て参ります。どういう意味でしょう。
 「6」という数字は「7」に1つ足りません。7というのは,ユダヤで完全な数です。6が無限に続いて666になっても,7に追いつかないということなんですね。だから,666というのは,絶対に7に到達しない数であると,どんなにがんばっても完全な7には勝てないということです。
 1260というのは「3年半の日数」です。3年半というのは7の半分です。だから1260日間,闇が支配して,そこから女から生まれる子供を追いつめて,荒れ野へ荒れ野へと追いつめていくけども3年半だけであり,7年は決して支配しないということを言っております。すなわち闇が支配するとみえるのは,半分だけ,1260日だけなのです。3年半すんだら本当の支配者が現れます。
 ではどのような形で,闇の力を討ち滅ぼすために,神は働かれるのでしょう。この世界は闇が支配しているのならば,その闇を覆すために神様はどんなことをなさるのでしょう。偉大な王様が現れて力でもって,と思ったらそうでない。イエス様の誕生の次第を見て参りましょう。
 彼は泊まる家もなく馬小屋に生まれて,衣に包まれて,飼い葉桶に寝かされている。この幼子イエスが,この闇の力を覆す主人公であるということを話しております。その側には若い母親と父親,マリアとヨゼフがいます。近くにいた羊飼い達がやって参ります。天使が「いと高きところには栄光神にあれ。地には平和み心にかなう人にあれ」と喜びの声を上げます。いかにも闇の力がこの世界を支配して,権力者を使って,動かしているように見えますが,その実,こんなに貧しい幼子イエスとその母マリアとヨゼフと羊飼い達とその天使達を通して,この支配から,この罪からこの悪から,この闇から新しい生き方が始まりますよと,このように伝えております。

この歴史も世界も,動かしているのはこの小さな幼子イエスなのです。信じられるでしょうか。権力と力を持った世界がすべてであると思ってる私たちに「違う」とおっしゃいます。神様は,こんな小さな幼子イエスを通しながら,人の生き方そのもの,人間がいろんな闇から解放される生き方を示して下さるのですと,おっしゃっております。
 そして,このイエス様にならって,貧しい生き方,質素な生き方,素朴な単純な生き方にならって生きようとする私たち信仰者も,世界を動かす主人公なのです。何も自分を卑下することはありません。アウグストゥスもヘロデも,すべて神様の手の中にある道具に過ぎません。彼らを通して神の計画が実現していきます。表面だけは闇の力が支配しているようです。私たちが生きてる社会も何か悪いことばかりのようです。でもそれらを通して,神様が確かに働いている。分裂や殺人や戦争,これらばかりを見ておりますと闇の力を感じます。でもこれらを通しながら,神さまはどこに私たちを導いていこうとしているのでしょうか。
 人間の生涯についても同じ事が言えます。私たちは人間として自由に決断して,自由に生きてると思いこんでおります。でもその実,私たちを支配しているのは闇の力なのです。私たちは闇の力に支配されて,自分の思うとおりにならない不自由な世界を生きています。自分で自分がどうにもならないんです。自然のままに生きてしまいますと,怒りとか,ねたみとか,分裂とか,殺人とか,破滅へと私たちは落とし込まれてしまいます。私たちが毎日体験していることです。なんて惨めな私でしょう。
 しかし,それも神様の計画の中にあるのです。その罪のあるところに神様の手が伸びてきます。アウグスティヌスという人がいますけど,古代の偉大な教父でして,彼は「罪のあるところに救いがある」ということを言っております。私たちのこの惨めさ,この悲しみ,この至らなさ,そこに神様がいる。私たちはその自分の惨めさとか,悲しみとか,この世界の悪,罪,その中に神の手が伸びてる。どのような形で。幼子イエスの形で。「ほら単純に生きなさいよ」と「素朴に生きなさいよ」と呼びかけているのです。傲慢に,人と争ってののしって生きるようなことをしてはいけないよ,ということを言っております。
 表面上は悪の力のように見えますが,実は悪の力から新しい命を生み出してくれる神様の力がここに働いております。こうして考えますと,弱々しく,貧しく生まれた幼子イエスを通して,神様は私たちが考えていることと全く別な方法で,私たちに新しい生き方ってのを教えてくれております。学力があれば,財力があれば,能力があればという能率,能力,効率主義の私たちの現代社会の中にあって,そうではない,人として一番大事なのは何かっていう問いかけを,幼子イエス様がなさっております。

神様こそ世界を支配しております。いかなる闇の力,いかなる罪があっても,神様の愛はもっと大きな力でもって,私たちを支配してくれます。そしてそれを信じてここに集まっている私たちを通して,新しい世界が生み出されて参ります。そんなことを考えながら,今日のミサを続けていくようにいたしましょう。

聞き取り:長谷川
司教様確認済