高松教区の信者の皆様,今日は皆様にお別れの言葉を申し上げます。
27年間,皆様は,1人の牧者,私を神から送られた者としてお受け取りになり,神の道を一緒に歩いて参りました。神様の御業を今思い起こし,皆様と一緒に感謝と賛美をお捧げ致します。
私は5月の14日に高松司教としての任務からの退任を,引退の願いをパパ様から受け入れられました。後任として,後にいらっしゃる司教様として,仙台の溝部脩司教様が同時に発表されました。私はこのニュースを聞いて非常に喜び,感謝いたしました。
今から何処に行くのですかというのは,おそらく皆様の一番大きな,知りたいことの第一だと思います。私は熊本県の熊本市「手取教会」に参ります。これは,神様のお指し図によって決定されたものですし,福岡教区の松永司教様が,是非,熊本のこの教会においでてくださるようにと,はっきり私にお願いになりましたので,私はほかの望みもありましたが,それを捨てて神様が私をお送りになる所に参ります。熊本といっても,とおーい所ではありません。4時間あれば行きます。近い。そこの教会は,熊本市のど真ん中です。一番真ん中にあって,まあそれはやかましいところです。(笑)全てのバスはそこに止まる。みんな集まってきます。大変なところです。それだけにそこは宣教の中心地として昔から大事な教会です。120年ほど前にパリ外国宣教会の神父様によって創立され,戦後1950年頃にコロンバン外国宣教会の神父様が,この地区を担当されました。今は,カリーという神父様がお一人で千何百人の信者の世話をしていらっしゃいます。私を待つのは何でしょうか・・・。知りません。(笑)行ってすぐ死ぬということはないでしょう。宣教だったら宣教,司牧だったら司牧,私が出来るだけのことを御奉仕するつもりでおります。皆様,お暇がありましたら熊本までお出かけ下さい。
ちょっと,この27年間のことを振り返ってみたいと思います。
高松司教に私が任命されたのは,1977年,昭和52年でした。7月31日に任命書を受け,そしてここで,この教会で9月の23日,昭和52年ですね,そのときの大阪の大司教様は,田口大司教様だったと思います。
司教の紋章があります。(笑)司教の紋章に私は,「真理のことば,救いの福音」ということばを選びました。それはエフェソの信徒に宛てたパウロのことばの最初に出てくることばでございます。「真理のことば,救いの福音」を私は告げ知らせるために,ここに参りました,という意味であります。なぜこの福音紋章のことばを選んだかと申しますと,実はここに参ります2年前,1975年だったと思います。シノドスというものがローマで行われました。世界司教代表者の大きな集まりであります。テーマは福音宣教であります。その中にパウロ6世教皇様がおっしゃったことばを,いろいろ黙想して,私はこのことばを選びました。私は福音を告げ,真理のことばを告げるためにここに参りました,という意味であります。
その頃の教会の状態の動きですが,それをちょっと思い出してみたいと思います。それは第2バチカン公会議が終わって,教会の大きな変革が続いていた時であります。公会議は1962年から65年まで行われました。そのことを覚えていらっしゃる方がまだお有りだと思います。それは教会にとって,もうかってないほど大きな変革をもたらした公会議でございました。社会一般でも,ちょうどフランスに始まった大革命が全世界に及んだ頃で,有名な学生運動がパリから始まって,日本もその影響を受けました。古い時代が新しい時代に移っていくという,激動の時代でございました。その影響のもとでしょうか,あるいは公会議の当然の結果でしょうか。教会の内部においても,新しい動き,それは聖霊の息吹,聖霊の動きに応えようとする教会の変革でありました。古い社会が終わって,新しい社会が生まれようとする中で,教会も新しく生まれ変わることを望んだのであり,それは当然の結果だと言えます。
伝統的な,いろいろな慣習的な,動きに浸っていた司祭,信徒,教会の全てが,この公会議による変革によって大きなショックを受けました。公会議の教えに戸惑っていた人々が少なからずあったのです。典礼が変わりました。これは,ある人にとっては信仰が失われるほどの大ショックだったかもしれません。悪い面がありました。確かに祈りは忘れられました。信心業も捨てられた。ゆるしの秘跡に来る人も少なくなったとか,悪い面が確かにあります。掟を,もう大事にしない風潮,罪の観念がずーっと変わりました。なにをしても構わないというような,そういう間違った考えが教会の中にも入りました。一口で言って,聖なるものが,世俗的なものによって,冒されてしまったと言えるかもしれません。聖なるものが,人々の心の中から段々と姿を消したのでしょう。司祭職についての召し出しもずっと減ってしまいました。世はあげて経済優先であり,「物重視」の時であり,一口で言って,それは世俗主義の到来であります。
この1977頃,激しい変化が少しずつ収まってきました。といえるでしょう。新しいもの,聖霊の働きに目覚め始めた時と言えましょう。公会議による教会の刷新の意味が,段々と多くの方々に理解されるようにもなりました。新しい時代が生まれようとしたのです。
そういう時に,私はここに司教として着座いたしましたが,その次の年にちょうど1年の後の時,78年の8月にパウロ6世教皇様が亡くなられました。後にヨハネパウロ1世が即位なさいましたが,1ヶ月で急死なさいました。皆さん覚えてらっしゃるでしょう。そして,10月にヨハネパウロ2世教皇様が,ポーランドから教皇として選ばれて,おいでになりました。これも大きな驚きでした。私はここに一つの具体的なことを申し上げます。ヨハネパウロ2世が着座なさって翌年,1979年の5月に,この新しい教皇様は,第1回ポーランド司牧旅行にお出かけになりました。私はどういうきっかけだったのでしょうか,私ともう1人の司教様が,自発的にこのパパ様の旅行に参加いたしました。そのころポーランドは,ソビエトの共産主義政権の下にあって,独裁政権の下にあって,教会が迫害され自由が奪われ,多くの人が殉教をしておりました。このような状況の中で,新教皇は,真っ正面から,そのポーランドの大統領に向かって,教会の権利,信仰を生きる自由をはっきりと要求なさいました。私はそれをテレビで見ました。信仰の自由と教会の自由を要求なさったのです。ポーランド国民が皆,信仰の敵に対して,抵抗し,信仰を守り,殉教をいといませんでしたが,彼らを激励し,ポーランド全土に希望を与えたのは,このパパ様のご旅行でありました。戦う教皇,希望を与えるパパ様,というのがこのパパ様に与えられたお名前であったと言えます。
当時,日本の教会で,大きな変化が始まりました。ポーランドにおいでになった2年後,1981年2月に教皇様は日本を訪問されました。4日間,東京,広島,長崎をお回りになって,3つのことを強調なさいました。
1つ,新しい宣教に対する情熱を燃やすこと,この世の勢力に負けないこと,福音を証しなさい,と各地でお話になりました。
2番目,世界の平和のために働きなさい。これは特に広島でのお話であります。
3番目,長崎では,殉教者の精神を受け継ぎなさい,とおっしゃって,長崎の各地をお回りになりました
このパパ様のご訪問に応えて,日本の教会は新しい動きを始めました。それは,一つに新しい宣教に対する情熱をかき立てられたということであります。宣教というのは何ですかということを,改めて日本の信者達は考え始めました。このときに,福音宣教全国会議というのが普通にナイス(NICE)といいますが,1987年だったと思います。京都で開かれました。各教区から代表が参加しました。そして,みんなが今から日本の教会を新しくするために,何が必要であるか,何をすべきかというのを,みんなで一緒に考え,祈りました。その中で一番はっきり,冒頭に出た信者達からの要求,それは「新しい宣教に積極的に参加できる,新しいタイプの新しい信仰を持った信者を養成してください」ということでした。「宣教したいんですけども,私たちはまだ準備が出来ていません。」という声が全部から出てきました。これは,今までかつて聞いたこともない信者達のことばでした。生涯養成の必要が,皆様の方から聞こえたのです。それは,洗礼の前に始まって洗礼の後に続いて,死ぬまで,私たちは生きた信仰を養って,福音宣教に従事したいという願いであります。世俗的な精神,物質的なこの世界に対決の出来る,戦うことの出来る信者を養成しようというのが,日本の教会のこのときの動きであります。
高松教区はどうだったでしょうか。新しい教会を導く司祭を作りたい,というのが一つの大きな願いになりました。当時,四国のこの教区の教区司祭は4,5人しかいらっしゃいませんでした。ここにいらっしゃる岩永神父様,池田神父様,下田神父様,それから亡くなった山下神父様,それから,松永神父様,もうほとんどそのときには,もう60歳に近く,大体もう60歳に近くなっていた司祭が,たった4人か5人しかいなかったんです。そのときに,私たちは,神学生を次々送っていたんですが,やはり10人ほどの神学生を私は福岡,東京また各地に神学生として送りましたけれども,みんな非常に良い神学生でしたが,この実りを持つことが出来ませんでした。
私の司教としての最大の悲しみと言いましょうか,問題点,一番私が苦しんだのは何だったでしょうか。司祭がいないということです。この後,10年20年後に,高松教区はどうなるか,それは私の責任です。司祭を養成するのは,司教の最も大切な責任だからであります。
私はこういう中で,1990年,今から14年前にローマで開かれたもう一つのシノドス,司教様達の代表者の集まりに出席いたしました。日本の教会から参加しました。テーマは,司祭の養成。神学生をどのように集め,どのように教育するか。そして,宣教のできる司祭をどのように養成するか,ということがこのときのシノドスのテーマでありました。私はそれに参加して,そしていろいろ口でも発表をしましたが,ここで,出かける前に一つの文書を紙に書いて,数十頁の文書にして教皇庁に提出しました。その中で,私が特に強調したのは次のことです。大神学院に入学する前に,希望者の信仰教育を十分に行うこと。すなわち,神学校に入って哲学2年,神学4年,全部で6年ですが,それでは司祭の養成は十分ではない,ということ。だから神学校に入る前,プレセミナリウム,神学校の前に,入る前に,十分いろいろな信仰生活の基本を身につけることが出来るような期間を置くように,ということを,私はローマに申請いたしました。2番目の,私が主張したことは,神学生の養成に携わるのは,神学校の先生だけではありません。信徒が何らかの形で,神学生の養成に関わるように,ということでした。神学校は,決して,なにか隔離された,どこかの建物の中で養成されるのではなくて,この民の中で信者との交わりの中でも,行われなければならない,ということでした。神学生は信徒と一緒に養成されるべきではないでしょうか,というのが私の考えでした。
こういう風に1990年に,不思議なことに司祭養成がテーマになったこのときに,私はお恵みによって,12月に,ここに教区立の国際宣教神学院を,小さな形で創立いたしました。10人ほどのヨーロッパから来た神学生がいました。ヨーロッパだけではなくて,到着して,そして神学校が,本当に小さな赤ちゃんの神学校ができました。それから14年間に,私は30名ほどの司祭を叙階いたしました。私がこに来て初めて司祭の叙階式をやったのは,司教になって12年。今日は栃尾神父様の叙階記念日です。ここの主任司祭。実は,私が叙階しました第1号は,ドミニコ会の田中正史,今,愛光の先生,ドミニコ会,そして彼が2番目。3番目は谷口神父でしたか?…そして以下,大きなお恵みによって約30人の司祭が生まれました。はっきり申し上げます。「司祭がいなければ,ミサはない。ミサがなければ,御聖体もない。」これはパパ様のことばです。もちろん,聖体拝領ができないとは言いません。しかし,司祭がいるというのは教会の当たり前の姿であり,牧者のない信者は迷います。悲しいことです。私は,司祭を神様が,この教区にも与えてくださったことを,今,改めて感謝いたします。
最後に,新しい司教様に対して,皆様はこれまで以上に,皆様はこれまでずっと私に対して愛を示してくださった,従順を示してくださったのですが,溝部司教様がいらっしゃったら,それにもまして,本当に心から従順と,そして一致を表して頂きたい。司教様に本当に司教様に,本当に主イエズス様に仕えるかのごとくに,皆様が深い信仰を持って一つの群れとなって,聖霊のお導きの下,正しい,強い信仰の教区を作り上げて頂きたいと思います。
どうぞ,皆様お元気で,いつまでも教会のため,社会の福音化のために,皆様が御尽力なさいますように祈って,神様のお恵みがあることを願っております。